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| |登戸情報局|中野島情報局|稲田堤情報局| | |||
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| 鎌倉・室町時代に多摩川は、多摩丘陵の山すそを這うようにして流れていました。しかし川筋がだんだん北に移動し天正十八年夏の大洪水により現在の流れに変わりました。このあたりにスゲが多く生えていたために「菅」という地名が付けられたと新編武蔵風土記に書かれています。 明治22年に菅、中野島、登戸、宿河原、堰の五ヶ所が合併して「稲田村」ができました。多摩川の洪水により、上流から土や砂を運び堆積されて肥沃な土地が生まれ「稲毛米」という高品質な米が生産されました。このような理由により「稲田」となりました。昭和7年には「稲田町」となりました。昭和十年には「新田」と「川原」という2つの村が合併して「稲田堤」となりました。 昭和13年稲田町は「川崎市」に合併しました。昭和35年には菅寺尾台が寺尾台として町になります。昭和47年川崎市は区制を施行し、「稲田」という名称は姿を消します。 |
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| この廃堂址は現在の寺尾台第2公園にあります。昭和25年菅に住む川崎善太郎氏(当時高校生)が発見されたもので、昭和26年、27年、43年の3ヶ年にわたって川崎市教育委員会の主催で発掘調査しました。 その結果、基壇の上に建てられた堂字の存在が推測されました。基壇の平面形が約9メートルの八角形であることから、建物も小型の八角円堂で、その建立の時期は、屋根を葺いた瓦の年代から、平安時代の初期と推定されます。 この八角堂は、付属の建造物が伴わないことから、寺院というよりは、山林中にひっそりと祀られた供養堂のような性格であったと考えられ、東国における数少ない遺跡として貴重です。 この八角堂基壇は、発掘調査の成果をもとにして、復元されました。 ●関連情報 → コチラ |
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| 菅の六地蔵 府中街道の道沿いに点々と、合わせて六体のお地蔵さまが祀られています。この六体の地蔵尊は、「菅の六地蔵」といわれるもので、土地の人々によって篤く信仰されています。 六地蔵というのは、人間が死ぬと六道(天上界・人間界・修羅・餓鬼・畜生・地獄)のどれかに彷徨うとされ、この時、どこの道に彷徨っても地蔵菩薩が救ってくださるという日本独特の仏教信仰に基づいたものです。このことから、寺の入口や墓地の入口に六体の地蔵がよく祀られます。 |
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| たとうさま(菅野戸呂) 野戸呂は昔から多摩川の洪水でしばしば堤防が決壊した。明治43年の大洪水を契機に堤防の補強用に古い俵を貯えた小屋や水難を絶とうとする「たとうさま」という石のほこらが建てられた。今でも多摩川沿いの道路の脇に柵に囲まれた「たとうさま」が当時の面影を偲ばせています。 ※交通量の多い道路の脇にありますので、見学には充分注意が必要です。 |
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| 菅渡し船場跡の碑(菅稲田堤) 菅の農民達が川向こうの畑に通ったり、梨や柿の出荷に利用し、多摩川最後の渡しとして残っていたが、昭和48年に姿を消した。 |
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